成長するということ |
2008年 10月 21日 |
成長とは、自我の殻をそぎ落としていくことだと思う。
最近、ふと、あることに気が付いた。
「違うもん、私は悪くないもん、間違ってないもん」
私には、いつも、こうして他人にも、自分にも、ムキになってそう主張する必要性があった。
なぜなら「間違っている=生きる価値がない」という図式が、潜在意識に出来上がっていたせいだ。
どうしても「私は生きる価値のない人間だ」とは認めたくなかったし、誰からもそうみなされたくなかった。
でも、私は同時に、こんなことも知っていた。
「自分もまた、すべての人と同じく、かけがいのない生命をもった大切な存在なのだ」ということを。
当然です。
あたりまえのことなんだから、いちいち「私は間違っていない!(私にだって、生きる価値があるんだ!)」と、ムキになって主張する必要性なんて、どこにあるんだろう?
そんな矛盾を抱えていたことに気がついた時、ポンッと、自我のトラップから抜け出したらしい。
そしたら、気が付いた。
もう苦しみを味わう必要なんて、なかったことに気がついた。
そして、追い求めていた幸せは、足元にあった。
ただ、これだけのことだった。
子どもがギャーギャー泣きわめくのは、自分の存在価値を認めてもらえないと感じている時だ。
だから、そんな時に子どもを叱りつけてしまうと、子どもはますます泣きじゃくり、心の傷はより深く大きくなってしまう。
そういう時は、ただひたすら、ありったけの愛情を込めて優しく抱きしめてなだめることが、いちばん大切だと思う。
愛を知って、人は初めて成長するのだから。
すべての自我は「自分の存在価値に対する不安」から発生するものらしい。
だから、自己を否定し劣等感に苛まれてしまうと、自我をどんどん発生させてしまうことになる。
そのことに気付いたので、自分の存在価値に対して絶対的な安心感を与えてあげてみたら、自我はいともカンタンに沈静化してしまった。
私は、成長するためには、自分の至らなさを思い知ることが先決だと思っていた。
謙虚であるためには、自分の至らなさを思い知ることが何よりも大切だと思っていた。
もちろん、成長するためには、自我を認識することが大切。
けれど、それ以前に、私は自分の至らなさを思い知ることで、自己嫌悪に陥ってきた。
そして、私は自我を見て見ぬフリをしつづけ、自我の鎧をガチガチに固めてきたのだった。
非難され叱られた子どもが、「私は間違ってないもん」と、ますます強情を張ってしまうように。
おかげで、私は、人一倍、我が強くて傲慢で生意気で、おまけに劣等感に翻弄されてばかりの弱い人間になっていた。
ずっと、自分の存在価値を否定してきた。
自分を傷つけ非難しバカにしては、同様に、他人を傷つけ非難しバカにしてきた。
そんな自分に直面する度に、自己嫌悪に陥り、成長しなければと思い、謙虚になろうと思い、人にやさしくなりたいと思ってきた。
なのに、そうなれない。
そうして自己嫌悪を感じることで、ますます我の強い傲慢な人間になっていった。
自我のトラップにはまりこんでいた。
でも、苦しみ、思い悩む必要なんて、一切なかったことに、ようやく気がついた。
この先、偉そうなことを言います(汗)。
わかったようなフリして偉そうなゴタクを並べますが、ま、聞いてあげようじゃないか、と思われる方は、読んでみてください。
すべての人は、平等に、絶対的な存在価値をたずさえて、祝福されて生まれてきた。
それでも、もし、「そうは言っても・・・、自分がそんなに価値のある人間だとは思えない、実際、ダメな人間だから」と思ってしまうとしたら、こう考えてみてください。
自分の存在価値を否定してしまうクセのある人は、必ず、他人の存在価値も同様に、否定してしまうクセがあります。
「いや、私は他人の存在価値を否定したくはない」と思うなら、まずは、自分をいたわってください。
その逆に、「他人の存在価値はともかく、自分の存在価値は絶対に否定したくない」と思ってしまう人も、内心では自分の存在価値に大きな不安を抱いています。
まずは、自分をいたわってください。
かけがえのない存在である自分を傷つけていませんか?
ダイヤモンドなら傷つけないよう、大事に大事に扱うというのに。
なのに、ダイヤモンドなんて比較にならないほど価値のある自分を、平気で傷つけていませんか?
人に優しくなりたいと思いつつも、優しくなれなかった時、そんな自分をとがめていませんか?
自分は意地悪な人間だ、傲慢な人間だと、自分をとがめていませんか?
でも、自分をとがめればとがめるほど、自我はますます強靭な鎧をつくりあげてしまいます。
叱れば叱るほど、子どもが、頑なに心を閉ざしてしまうように。
人に優しくなれなかった時ほど、どうか、自分に優しくしてあげてください。
もちろん、自分を正当化するために、他人を非難するという意味ではありません。
自分が悪いのでもなく、他人が悪いわけでもないのだから。
この世の中に誰一人として、悪い人はいないのだから。
「でも、現に悪い人がいる」と思ったら、それは、単に価値観の問題です。
連続殺人犯であろうと独裁者であろうとカルト宗教の教祖だろうと、「悪い人」ではないようです。
そもそも、いいことも、悪いことも、ないのだから。
なのに、「何が正しくて何が悪いのか」と、決めつけてしまう判断基準そのものが、他人を裁き、自分を裁きます。
それが、自分を苦しめている根本原因です。
つまり、その判断基準を手放すと、もうこれ以上、苦しみを味わう必要がなくなります。
幸せでありたいと思ったら、ただ、この考えを採択してみてください。
そうすれば、自分をとがめず、人をとがめず、社会をとがめず、世界をとがめずにいられる。
つい、誰かを、何かをとがめてしまったとしても、そんな自分すらも、とがめないで。
何がいいのか、何が悪いのかだなんて考えないで、ただひたすら、穏やかに、自分にやさしく。
まずは、自分にやさしくなること。
そう聞くと、こんな考えが出てくるかもしれません。
「それは、妥協じゃないか。単なる諦めじゃないか。責任放棄じゃないか。社会のルールはどうなるんだ。悪人は裁かれて当然じゃないか。
そんな現実離れしたこと考えていては、ダメなんだ。道徳というものに従って生きるから、人は成長できるのではないか」
でも、そう考えることが、自我のトラップだったことに、気がつきました。
怒ってしまったり、他人を咎める思いに捕らわれたり、ストレスを感じたり、ヘコんでしまったり、自分の不甲斐なさを自覚してしまった時こそ、成長のチャンスです。
そんな時こそ、とにかく、徹底的に、自分にやさしくなる。
感情的になっていたら、ただ、ひたすら、その感情を感じてみる。
その時、自分も他人も咎めないこと。
何が正しくて、何が悪いのかなんて、考えないこと。
そんな価値観にふりまわされないこと。
自己嫌悪、劣等感、罪悪感にふりまわされないこと。
ただ、何も考えずに、「怒ってるわぁ~」「イライラしてるなぁ~」と、感情を感じとる。
原因を考える前に。
そうすると、感情というものは、長くても5分もすれば、消えてなくなってしまう。
そうして、感情が過ぎ去ったことが確認できたら、そのうえで、自我を認識する。
そうすると、
「あの人をとがめてしまったのは、自分の中に、こうあるべきだ、という思いがあるからだ」
「怒ってしまったのは、自分を認めてもらえないと感じたからだ」
こんなことが、見えてきます。
そんな判断基準や、ミニ自我ちゃんを抱えていたことに、気がつきます。
そうしたら、その自我の気持ちをわかってあげる。
責めずに、咎めずに、とことん、やさしく。
「そうだよねぇ、今まで苦しかったんだもの、わかるよ、大変だったよね、つらい思いさせて、ごめんね、ありがとう」
とことん、認める。ゆるす。やさしく、包み込む。感謝する。
そうして自我の存在を認めてあげると、今まで頑なに我を張っていた自我が、ウソのように沈静化してしまう。
泣き疲れた子どもが、いつのまにか、腕の中ですやすやと平和な眠りに落ちていくように。
それらはすべて、自己の存在価値に対する不安から生じた幻想だったことに、気がつくから。
そうして、ひとつ、自我が浄化されることで、人はひとつ、成長する。
そうしたら、それだけで、世の中の苦しみは、どんどん消えてなくなり、
ここには、幸せがあるだけ。
ふと、そんな境地に立ってしまいました。
気付いてみたら、世の中には苦しみなんて存在しなくて、ただ、ひたすら、幸せがあるだけでした。
幸せ、それだけ。
こんなにカンタンなことでした。
念のため言っておきますが、私は無宗教です。ヘンな宗教にハマったわけでもありません。
もちろん、解脱しちゃったわけでもありません。
おかげで、ようやく劣等感に苛まれることなく、自我を直視できるようになりました。
こうして、ようやく成長のための第一歩を踏み出せたことに、気付きました。
そうして、改めて振り返ってみると、自我は無数にあって、叩けば叩くほど、出てくるわ出てくるわ、キリがありません。
じゃ、叩かなきゃいいじゃん。とも思ったけど、どうやら、そういうわけにもいかない様子。
人は生きていく限り、際限なく、自我に対峙させられるものらしい。
ま、自我に気付いたら、ひとつひとつ、解放してあげればいいだけなのだから。
自我をみつけるたびに、笑い飛ばしてあげればいい。
苦しみを覚える必要なんて、まるでない。
それでも、どうしても苦しくなっちゃったら、胸に意識を向けてあげればいい。
そこには、必ず、赤いバラが咲いているのだから。
かけがえのない生命の輝きを放っているのだから。
あとがき。
こんなこと、人に言うべきかどうか迷ったけれど、書いてしまいました。
今の自分のあり方を確認するために。
自分へのアドバイスのために。
何を悟ったようなこと言ってるんだか、と、あきれられることでしょうが、これは、今の私の正しさです。
今の私だけの真実です。
偉そうなこと言ってみたけど、今後、心境に変化はあることでしょう。コロコロと。
そうすれば、その時の真実は変わります。
宇宙は変化するものだから。
そして、人の数の分だけ宇宙があり、人の数の分だけの、真実があります。
人の数の分の、その人のその今の分だけ、真実があります。
真実は、無数にある。
だから、その「真実」を自分や他人を咎めるための判断基準にしないこと。
そうして、すべての真実を否定せずに認めることで、初めて、世の中は、平和になるそうです。
だから、私の真実を押し付けるつもりで書いたわけではありません。
これは今の私の真実ですが、皆様は今の皆様にとっての真実を探求してください。
で、つまり、何が言いたいかというと、
自分に再確認するついでに、
一人でも多くの方に、私がみつけた真実を聞いて欲しくなってしまったのです。
苦しみは、本当になくなってしまうということを。
心のあり方をちょっと動かすだけで、もう、苦しむ必要がなくなることを。
でも、もちろん、こんな文章を書いてしまったのも、自己主張したがりの私の自我がしていることです。
人はみんな、自己主張するために生まれてきたので、これも当然なのですが、、、
とってもハズカしいのです(汗)。
だから、聞いて欲しかったけど、後は、ぜんぶ、笑い飛ばしていただければ幸いです(笑)。
Love,
ドロたん
最近、ふと、あることに気が付いた。
「違うもん、私は悪くないもん、間違ってないもん」
私には、いつも、こうして他人にも、自分にも、ムキになってそう主張する必要性があった。
なぜなら「間違っている=生きる価値がない」という図式が、潜在意識に出来上がっていたせいだ。
どうしても「私は生きる価値のない人間だ」とは認めたくなかったし、誰からもそうみなされたくなかった。
でも、私は同時に、こんなことも知っていた。
「自分もまた、すべての人と同じく、かけがいのない生命をもった大切な存在なのだ」ということを。
当然です。
あたりまえのことなんだから、いちいち「私は間違っていない!(私にだって、生きる価値があるんだ!)」と、ムキになって主張する必要性なんて、どこにあるんだろう?
そんな矛盾を抱えていたことに気がついた時、ポンッと、自我のトラップから抜け出したらしい。
そしたら、気が付いた。
もう苦しみを味わう必要なんて、なかったことに気がついた。
そして、追い求めていた幸せは、足元にあった。
ただ、これだけのことだった。
子どもがギャーギャー泣きわめくのは、自分の存在価値を認めてもらえないと感じている時だ。
だから、そんな時に子どもを叱りつけてしまうと、子どもはますます泣きじゃくり、心の傷はより深く大きくなってしまう。
そういう時は、ただひたすら、ありったけの愛情を込めて優しく抱きしめてなだめることが、いちばん大切だと思う。
愛を知って、人は初めて成長するのだから。
すべての自我は「自分の存在価値に対する不安」から発生するものらしい。
だから、自己を否定し劣等感に苛まれてしまうと、自我をどんどん発生させてしまうことになる。
そのことに気付いたので、自分の存在価値に対して絶対的な安心感を与えてあげてみたら、自我はいともカンタンに沈静化してしまった。
私は、成長するためには、自分の至らなさを思い知ることが先決だと思っていた。
謙虚であるためには、自分の至らなさを思い知ることが何よりも大切だと思っていた。
もちろん、成長するためには、自我を認識することが大切。
けれど、それ以前に、私は自分の至らなさを思い知ることで、自己嫌悪に陥ってきた。
そして、私は自我を見て見ぬフリをしつづけ、自我の鎧をガチガチに固めてきたのだった。
非難され叱られた子どもが、「私は間違ってないもん」と、ますます強情を張ってしまうように。
おかげで、私は、人一倍、我が強くて傲慢で生意気で、おまけに劣等感に翻弄されてばかりの弱い人間になっていた。
ずっと、自分の存在価値を否定してきた。
自分を傷つけ非難しバカにしては、同様に、他人を傷つけ非難しバカにしてきた。
そんな自分に直面する度に、自己嫌悪に陥り、成長しなければと思い、謙虚になろうと思い、人にやさしくなりたいと思ってきた。
なのに、そうなれない。
そうして自己嫌悪を感じることで、ますます我の強い傲慢な人間になっていった。
自我のトラップにはまりこんでいた。
でも、苦しみ、思い悩む必要なんて、一切なかったことに、ようやく気がついた。
この先、偉そうなことを言います(汗)。
わかったようなフリして偉そうなゴタクを並べますが、ま、聞いてあげようじゃないか、と思われる方は、読んでみてください。
すべての人は、平等に、絶対的な存在価値をたずさえて、祝福されて生まれてきた。
それでも、もし、「そうは言っても・・・、自分がそんなに価値のある人間だとは思えない、実際、ダメな人間だから」と思ってしまうとしたら、こう考えてみてください。
自分の存在価値を否定してしまうクセのある人は、必ず、他人の存在価値も同様に、否定してしまうクセがあります。
「いや、私は他人の存在価値を否定したくはない」と思うなら、まずは、自分をいたわってください。
その逆に、「他人の存在価値はともかく、自分の存在価値は絶対に否定したくない」と思ってしまう人も、内心では自分の存在価値に大きな不安を抱いています。
まずは、自分をいたわってください。
かけがえのない存在である自分を傷つけていませんか?
ダイヤモンドなら傷つけないよう、大事に大事に扱うというのに。
なのに、ダイヤモンドなんて比較にならないほど価値のある自分を、平気で傷つけていませんか?
人に優しくなりたいと思いつつも、優しくなれなかった時、そんな自分をとがめていませんか?
自分は意地悪な人間だ、傲慢な人間だと、自分をとがめていませんか?
でも、自分をとがめればとがめるほど、自我はますます強靭な鎧をつくりあげてしまいます。
叱れば叱るほど、子どもが、頑なに心を閉ざしてしまうように。
人に優しくなれなかった時ほど、どうか、自分に優しくしてあげてください。
もちろん、自分を正当化するために、他人を非難するという意味ではありません。
自分が悪いのでもなく、他人が悪いわけでもないのだから。
この世の中に誰一人として、悪い人はいないのだから。
「でも、現に悪い人がいる」と思ったら、それは、単に価値観の問題です。
連続殺人犯であろうと独裁者であろうとカルト宗教の教祖だろうと、「悪い人」ではないようです。
そもそも、いいことも、悪いことも、ないのだから。
なのに、「何が正しくて何が悪いのか」と、決めつけてしまう判断基準そのものが、他人を裁き、自分を裁きます。
それが、自分を苦しめている根本原因です。
つまり、その判断基準を手放すと、もうこれ以上、苦しみを味わう必要がなくなります。
幸せでありたいと思ったら、ただ、この考えを採択してみてください。
そうすれば、自分をとがめず、人をとがめず、社会をとがめず、世界をとがめずにいられる。
つい、誰かを、何かをとがめてしまったとしても、そんな自分すらも、とがめないで。
何がいいのか、何が悪いのかだなんて考えないで、ただひたすら、穏やかに、自分にやさしく。
まずは、自分にやさしくなること。
そう聞くと、こんな考えが出てくるかもしれません。
「それは、妥協じゃないか。単なる諦めじゃないか。責任放棄じゃないか。社会のルールはどうなるんだ。悪人は裁かれて当然じゃないか。
そんな現実離れしたこと考えていては、ダメなんだ。道徳というものに従って生きるから、人は成長できるのではないか」
でも、そう考えることが、自我のトラップだったことに、気がつきました。
怒ってしまったり、他人を咎める思いに捕らわれたり、ストレスを感じたり、ヘコんでしまったり、自分の不甲斐なさを自覚してしまった時こそ、成長のチャンスです。
そんな時こそ、とにかく、徹底的に、自分にやさしくなる。
感情的になっていたら、ただ、ひたすら、その感情を感じてみる。
その時、自分も他人も咎めないこと。
何が正しくて、何が悪いのかなんて、考えないこと。
そんな価値観にふりまわされないこと。
自己嫌悪、劣等感、罪悪感にふりまわされないこと。
ただ、何も考えずに、「怒ってるわぁ~」「イライラしてるなぁ~」と、感情を感じとる。
原因を考える前に。
そうすると、感情というものは、長くても5分もすれば、消えてなくなってしまう。
そうして、感情が過ぎ去ったことが確認できたら、そのうえで、自我を認識する。
そうすると、
「あの人をとがめてしまったのは、自分の中に、こうあるべきだ、という思いがあるからだ」
「怒ってしまったのは、自分を認めてもらえないと感じたからだ」
こんなことが、見えてきます。
そんな判断基準や、ミニ自我ちゃんを抱えていたことに、気がつきます。
そうしたら、その自我の気持ちをわかってあげる。
責めずに、咎めずに、とことん、やさしく。
「そうだよねぇ、今まで苦しかったんだもの、わかるよ、大変だったよね、つらい思いさせて、ごめんね、ありがとう」
とことん、認める。ゆるす。やさしく、包み込む。感謝する。
そうして自我の存在を認めてあげると、今まで頑なに我を張っていた自我が、ウソのように沈静化してしまう。
泣き疲れた子どもが、いつのまにか、腕の中ですやすやと平和な眠りに落ちていくように。
それらはすべて、自己の存在価値に対する不安から生じた幻想だったことに、気がつくから。
そうして、ひとつ、自我が浄化されることで、人はひとつ、成長する。
そうしたら、それだけで、世の中の苦しみは、どんどん消えてなくなり、
ここには、幸せがあるだけ。
ふと、そんな境地に立ってしまいました。
気付いてみたら、世の中には苦しみなんて存在しなくて、ただ、ひたすら、幸せがあるだけでした。
幸せ、それだけ。
こんなにカンタンなことでした。
念のため言っておきますが、私は無宗教です。ヘンな宗教にハマったわけでもありません。
もちろん、解脱しちゃったわけでもありません。
おかげで、ようやく劣等感に苛まれることなく、自我を直視できるようになりました。
こうして、ようやく成長のための第一歩を踏み出せたことに、気付きました。
そうして、改めて振り返ってみると、自我は無数にあって、叩けば叩くほど、出てくるわ出てくるわ、キリがありません。
じゃ、叩かなきゃいいじゃん。とも思ったけど、どうやら、そういうわけにもいかない様子。
人は生きていく限り、際限なく、自我に対峙させられるものらしい。
ま、自我に気付いたら、ひとつひとつ、解放してあげればいいだけなのだから。
自我をみつけるたびに、笑い飛ばしてあげればいい。
苦しみを覚える必要なんて、まるでない。
それでも、どうしても苦しくなっちゃったら、胸に意識を向けてあげればいい。
そこには、必ず、赤いバラが咲いているのだから。
かけがえのない生命の輝きを放っているのだから。
あとがき。
こんなこと、人に言うべきかどうか迷ったけれど、書いてしまいました。
今の自分のあり方を確認するために。
自分へのアドバイスのために。
何を悟ったようなこと言ってるんだか、と、あきれられることでしょうが、これは、今の私の正しさです。
今の私だけの真実です。
偉そうなこと言ってみたけど、今後、心境に変化はあることでしょう。コロコロと。
そうすれば、その時の真実は変わります。
宇宙は変化するものだから。
そして、人の数の分だけ宇宙があり、人の数の分だけの、真実があります。
人の数の分の、その人のその今の分だけ、真実があります。
真実は、無数にある。
だから、その「真実」を自分や他人を咎めるための判断基準にしないこと。
そうして、すべての真実を否定せずに認めることで、初めて、世の中は、平和になるそうです。
だから、私の真実を押し付けるつもりで書いたわけではありません。
これは今の私の真実ですが、皆様は今の皆様にとっての真実を探求してください。
で、つまり、何が言いたいかというと、
自分に再確認するついでに、
一人でも多くの方に、私がみつけた真実を聞いて欲しくなってしまったのです。
苦しみは、本当になくなってしまうということを。
心のあり方をちょっと動かすだけで、もう、苦しむ必要がなくなることを。
でも、もちろん、こんな文章を書いてしまったのも、自己主張したがりの私の自我がしていることです。
人はみんな、自己主張するために生まれてきたので、これも当然なのですが、、、
とってもハズカしいのです(汗)。
だから、聞いて欲しかったけど、後は、ぜんぶ、笑い飛ばしていただければ幸いです(笑)。
Love,
ドロたん
# by rainy_day_t_12_35 | 2008-10-21 13:02 | 雑記